のぼり旗に助けられた
私がまだ20代のころの話しです。
その時代は、学生運動などが盛んな時期でもあり、若者にエネルギーが満ちていた時代だと思います。
私も学生をやりながら様々な事に挑戦しようと考えていました。
フォークバンドを組んでみたり、俳優の真似事をしたりと輝かしい将来を信じて疑いませんでした。
しかし、いくら大きな夢をもっていても、そこは若者です。
金銭的な余裕は全くありませんでした。
そんな時に足しげく通っていたのが近所の定食屋であります。
「定食屋」というシンプルなのぼりが店頭にそびえ立っており、決して綺麗だとはいえない店構えですが、私にとってはオアシスの様な場所だったのです。
その定食屋の主人は、私の事を気に入ってくれており、お金に余裕が無い時などは、「出世払いでいいよ」と言ってくれて、無料で食事を取らせてくれることもあったのです。
そんな気質な店主がいる定食屋ですので、客は私と同様の若者が多く、笑顔があふれる暖かい場所だったのです。
そのころ私は、小さな劇団に所属していましたが、ある日大きな事務所から引き抜きがかかったのです。
夢のような話しでしたし、給料も破格だったのですぐに飛びつきました。
いくか若かったとはいえ、中途半端に劇団を投げ出してしまい、義理にかいた行動だったと思います。
それでも、新しい事務所では映画やテレビなどで中々よい役を貰えるようになり、裕福な暮らしができる様になったのです。
そして、気づいた時には、のぼりが印象的なあの定食屋には通わなくなっていたのです。
のぼり旗が助けてくれた
いつの時代の俳優でも当たり前かもしれませんが、あの頃は、「映画スター」という言葉があるほどに、俳優は特別に扱われていたのです。
小さな役ながら映画に出演する機会が増えていた私は、周囲からちやほやされる存在になっていました。
その頃はまだ20そこそこの若造です。
まとまった金銭が入ってきても、すぐに浪費してしまい、全く貯金などはしていませんでした。
そして、ある女性に恋をしたのです。
その女性は、水商売で働いていたのですが、「純朴」という言葉よく似合う女性だったのです。
店に通っている内に本気で恋をしてしまった私は、どうにかしてその女性と付きあおうと必死だったと思います。
しかし、彼女には借金があり、それを返さない内には店を辞める事が出来ないのだといいました。
もうお分かりの方もいると思いますが、ありがちな詐欺の手口に引っかかってしまい、大きな金額を騙し取られてしまったのです。
愛する人に騙された心の痛みは筆舌に表せないほどで、俳優の仕事にも身が入らずに事務所も解雇されてしまったのです。
もはや何もかもがどうでもよく、全てを終わらせようと駅のホームに佇んでいた時です。
駅から見える商店街に「定食屋」ののぼり旗がはためいていたのです。
私はどうしてもあの店の定食を食べたくなりました。
そして、例の定食屋に向かうとあの頃と同じように定食屋のぼりが立っていたのです。
店主は私に気づいていない様でしたが、店内は昔と変わらず若者の笑顔で溢れていました。
あの頃と変わらぬ味の定食をたいらげた私は、新たな気持で店を出る事が出来たのです。